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熊本地方裁判所 昭和47年(ワ)615号 判決

原告

古瀬曻

右訴訟代理人

竹中敏彦

被告

熊本市

右代表者市長

星子敏雄

右訴訟代理人

本田正敏

主文

一  被告は原告に対し、金三〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和四八年一月一一日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その四を原告の、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一、請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金一五〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和四八年一月一一日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二、請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一、請求原因

1  原告は、昭和四五年七月九日出生の柴犬(犬名由美姫号)を同年九月一日から所有飼育してきた。

2  ところで、昭和四七年一二月一九日午前六時三〇分頃、原告は同犬を鎖につけて散歩中、熊本市薄場町九七の二番地山口方前路上にさしかかつた際、同犬は熊本市畜犬管理所の職員ら(以下「市職員ら」という)が野犬薬殺のために前記山口方敷地内に配置した毒えさを食し、獣医の診療を求める間もなく、原告の自宅において死亡した。

3  本件事故は、市職員らの過失にもとづいて発生した。すなわち、市職員らは、野犬薬殺につき事前に周知の方法をとり、また、毒えさを配布するにあたつては、人畜に危険を及ぼすおそれのない場所にこれを配置するとともに、配置した場所毎に「熊本市犬取締条例施行規則」の定める適式の標識を設置して事故を未然に防止する法律上の義務があるにもかかわらず、これを怠り、人畜に危険のある前記山口方敷地内に毒えさを配置し、右規則による適式な標識を設置しなかつた。

4  被告は、市職員らの使用者であり、本件事故は、市職員らがその職務として実施した野犬薬殺から生じたものであるから、被告は本件事故によつて原告が蒙つた損害を賠償すべき義務がある。

5  原告は、昭和四五年九月一日、同犬を金二五、〇〇〇円で購入した。同犬は、血統書つきであり、その父犬である秀駒号は、各種大会で受賞した名犬であつた。原告は同犬を家族の一員同様に愛玩し、手塩にかけて飼育していたのであるが、本件事故により愛犬を失つた原告の精神的苦痛は大きく、これを慰藉するには金一五〇、〇〇〇円が相当である。

6  よつて、原告は被告に対し、慰藉料として金一五〇、〇〇〇円およびこれに対する本件訴状が被告に送達された日の翌日である昭和四八年一月一一日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。〈以下省略〉

理由

一請求原因1の事実は、当事者間に争いがない。

二同2の事実中、原告主張の柴犬が死亡したことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、同犬は昭和四七年一二月一九日午前六時三〇分頃、原告が鎖をつけて歩行中、熊本市薄場町九七の二番地山口方敷地内の道路に近接した地点に被告市畜犬管理所職員が野犬薬殺のため配置した毒えさを食したため、間もなく原告自宅において死亡したことが認められ、〈る。〉

三そこで、本件事故が被告市職員らの過失に基因して発生したかどうかについて調べてみる。

1  〈証拠〉を綜合すれば、昭和四七年一一月三〇日力合校区自治会連合会長より熊本市畜犬相談所長宛に、第六町内(同町内に原告が居住している)等に野犬の横行甚しく、農作物および鶏の被害をうけているので野犬薬殺の実施を願いたい旨の申請がなされたこと、被告市畜犬管理所では鳥江、津川両技術員を派遣して調査の結果、野犬薬殺の必要があると認め、所定の決裁手続を経たうえ、同年一二月九日付告示二五五号をもつて、熊本市犬による危害防止条例(昭和四四年条例第一三号)第七条一項の規定に基づき、同年一二月十九日午前四時から一二時までの間、力合校区第二町内および第六町内において硝酸ストリキニーネを混ぜた肉だんごを置く方法により野犬薬殺を実施する旨および同地区内の飼い犬の厳重けい留を告示し、右告示を熊本市役所および各支所に掲示したこと、そして、その頃同市長名で近く野犬薬殺を実施する予定につき、飼犬の調査を行いたいので飼犬を自治会長まで届出願いたい旨の協力依頼の回覧が前記第六町内の隣保組織を通じてなされたこと、その後、前記告示の内容を記載した「野犬薬殺についてお知らせ」と朱書したポスターが約一〇枚六町内の電柱等公衆の見やすい場所に貼付され、あわせて、町内自治会長から町内各位宛に野犬薬殺の実施日時と放し飼の禁止、毒えさの配置場所には毒えさと赤字の標示がしてある旨の回覧を前記同様の方法で実施したこと、また、野犬薬殺の前日である一二月一八日同町内一帯を広報車で巡回して広報に努めたこと、そして、一二月二九日の野犬薬殺実施当日は畜犬管理所職員津川芳三ほか四名が午前四時三〇分頃から前記第六町内会長藤川章の案内で同町内約二〇箇所に毒えさを置き、場所毎に五〇センチの高さに三〇センチ位の赤いきれをつけた標識を立て、毒えさの下に「危険」「これは毒えさですからさわらないこと」「熊本市」と一部朱書した縦約一八センチ、横約二六センチの紙片を添えておいたこと、毒えさの回収は同日午前七時頃から開始されたが、その間一、二回職員による巡視が行われたことが認められ、〈る。〉なお、被告は、原告が本件薬殺の実施を了知しながら、飼犬を放し飼いにしたか、これを戸外に連れ出したから被告市職員らに過失はないと主張するが、右主張に添う〈証拠〉は、原告本人の供述に照らして措信し難く、他に被告の右主張を認めるに足りる的確な証拠はない(もし原告が事前に薬殺の実施を知つていれば、愛犬を伴つて散歩するとは到底考えられない)。

2 そこで、右認定事実を前提として、被告市職員らが野犬薬殺の実施について注意義務を尽したかどうかについて検討する。

(一) まず、野犬薬殺を施行する場合の一般的注意義務について考えてみるのに、野犬薬殺は野犬等が人畜に害を加えることを防止するために行われるものであるが、人命、身体および飼育動物に対する危険防止ならびに動物愛護の観点に照らしてみれば、緊急を要しかつ他の手段によることが著るしく困難であるときに限つて行うべく(熊本県犬取締条例第一条、第三条、第一〇条参照)、右薬殺が特に必要と認められる場合においても、その実施にあたる者は事故の発生を未然に防止するため関係住民に対する周知の方法を徹底し、周到な準備のもとに細心の注意を払つて、これを行うべきが当然であるといわねばならない。

(二) ところで、前記野犬薬殺の告示によれば、本件は「熊本市犬による危害防止条例」(以下、単に条例という。)第七条一項の規定により実施されたものであるところ、同条の細則を定めた同条例施行規則によれば、薬殺周知の方法として、前記認定の市長名による告示および町内における掲示のほか、薬殺開始の三日前から薬殺開始の日までの間の適当な日に、新聞、放送その他の方法によつて広報することが定められ(同規則第六条)、また、薬殺の方法についても、人畜に危害のないと思われる適当な場所に、それが毒えさであることを表示した標識(第3号様式)を置くこと(同規則第四条一項、三項)と明定しているのであるから、被告市職員らは、右規則の制定趣旨に従つて、薬殺を実施すべきである。

(三) ところが、被告市職員は、前記認定の広報活動を行つたのみで、右規則が新聞、放送と具体的に例示している広報を行つた形跡はなく、したがつて、原告のように夫婦共稼ぎで留守をしている家庭(このような家庭が同町内に多数あることは前記藤川証人の証言によつて認められる。)では、前記掲示、回覧、昼間の広報車の巡回等による広報活動だけでは了知できない場合が考えられるから、広報の方法として必ずしも徹底したものとは認め難く、いまだ、前記規則所定の十全な広報を行つたとは認め難い。

(四) 次に、毒えさ配置の時刻、場所について考えてみると、前記のとおり、毒えさを置いたのは午前四時三〇分頃という未明であるから、その配置場所に前記認定のような標識(右標識が適式のものであつたかどうかは暫く措く。)をたて、前記紙片を添えただけでは配置場所を認識し難いことは容易に予測されるところであり、原告本人の供述によれば、本件事故の発生した午前六時三〇分頃はまだ暗く、本件毒えさの置かれた傍に防犯燈があつたけれども、その照明度も本件毒えさの存在を事前に明認しうるほどでなかつたことが認められる(前記藤川証人の証言中、右認定に反する部分は原告本人の供述に照らして措信し難い)。のみならず、右藤川証人の証言によれば、本件毒えさの置かれた場所は人家の敷地内とはいえ道路に近接した地点であり、飼犬を連れて歩行すれば、これを食する危険のあつたことが認められるのに、前記のとおり、市職員は藤川町会長の案内で安易に毒えさを置いたことが認められる。

(五) 以上説示のとおりであるから、被告市職員らが前記規則の制定された趣旨に則り、事故の発生を未然に防止すべき注意義務を尽したとは認め難い。

3  してみれば、本件事故の発生につき被告市職員津川芳三らには前記野犬薬殺の実施につき過失があつたといわねばならないから、その使用者であることにつき当事者間に争いない被告熊本市は、本件事故によつて原告が蒙つた損害を賠償すべき義務があるといわねばならない。

四進んで、損害額について判断する。

1  本件事故によつて死亡した犬は原告が昭和四五年九月一日金二五、〇〇〇円で購入したもので、その父犬が各種大会で受賞した血統書づきの柴犬であつたことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、原告およびその家族は同犬を「メアリ」と名付けて、生後約二か月から手塩にかけて愛玩飼育し、とくに、原告は同犬を連れて朝夕散歩することを日課としていたのに、本件事故により愛犬を目の前で数分後に死に至らしめられ、多大の精神的苦痛をうけたことが認められる。

2  けれども、動物愛護の観点と併せて、犬による人畜その他農作物に対する危害を防止することも、社会生活の安全を確保し、公衆衛生の向上を図るうえで肝要であることはいうまでもないところ、前記認定のとおり、被告市においては、必ずしも十全でないとはいえ、本件野犬薬殺に際して、事前に告示、回覧、広報車による放送を実施しているのであるから、原告が第六町内の住民として、同町内の出来事に関心をもつていれば、野犬による被害や野犬狩りの情報を知ることが容易にできた筈であり(とくに、原告方では本件事故発生前、邸内に住まわせていた野犬が近くの主婦に咬傷を負わせた事故を起していることが、成立に争いない乙第八号証および原告本人の供述によつて認められるから、野犬による被害防止について関心を払うのが当然である。)、また、原告が熊本市役所市民課に、妻が八代市所在の保険会社にそれぞれ勤務して、昼は夫婦とも留守であつた(この点は原告本人の供述によつて認められる。)のであるから、原告においても、隣保組織を通じて行われる回覧はもとより、広報車による広報等も帰宅後速やかに了知しうるよう、隣人等と連絡を密にしておくよう努めるべきであり、さらに、犬の飼育に当つては、道路その他に放置された食物等を食しないよう平素から訓練しておくことが期待され、右に挙げたような注意を原告が怠らなければ、本件事故の発生も回避されたであろうと考えられる。

3  以上認定の諸般の事情を考慮すれば、本件事故による原告の精神的苦痛を慰藉するには、金三〇、〇〇〇円をもつて相当と認める。

五よつて、原告の本訴請求は、原告が被告に対し慰藉料金三〇、〇〇〇円およびこれに対する本件事故発生の後である昭和四八年一月一一日から支払済みに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において正当として認容し、その余は失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条を、勝訴部分の仮執行の宣言につき同法第一九六条を適用して、主文のとおり判決する。 (糟谷忠男)

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